六角坂 文京区

「六角坂は上餌差(かみえさし)町より 伝通院の裏門の前に出る坂なり、古くより 高家(こうけ)六角氏の邸の前なる坂故にかくいへり」(『改撰江戸志』)とある。
『江戸切絵図』(万延2年(1861)の尾張屋清七板)をみると、この坂が直角に曲がっているあたりに、六角越前守の邸があったことがわかる。
餌差町は、慶長年間(1596~1615)、鷹狩の鷹の餌となる 小鳥を刺し捕えることを司る「御餌差衆」の屋敷がおかれたところである。近くに歌人・島木赤彦が下宿し、『アララギ』の編集にあたった「いろは館」があった。
東京都文京区教育委員会   昭和63年3月
(坂の標識より)

「一の坂」~「八の坂」 豊島区

中井駅周辺は西落合方面から神田川に向けて斜面を形成し、幅狭で丸印のある急な坂が多くあります。
「一の坂」から「八の坂」までと順番に名づけられ、住民に親しまれています。

一の坂 (いちのさか)
新宿区中井2-4と11・10の間
中井地区は「一の坂」から「八の坂」まで番号のついた坂名が並んでいる。その一番東の坂だから。

ニの坂 (にのさか)
新宿区中井2丁目
蘭塔坂通り(二の坂)  Rantozaka-dori  新宿区
かつてこの坂の途中に墓地があり、蘭塔と呼ばれる卵形の塔婆があり、多くは禅僧の墓標として用いられた。

三の坂 (さんのさか)
新宿区中井2丁目
 

暗闇坂 (くらやみざか) 文京区

暗闇坂  くらやみざか 
江戸時代は、加賀屋敷北裏側と片側寺町の間の坂で、樹木の生い茂った薄暗い寂しい坂であったのであろう。
江戸の庶民は、単純明解にこのような坂を暗闇坂と名づけた。23区内で同名の坂は12か所ほどある。区内では、白山5丁目の京華女子高校の裏側にもある。
この坂の東側 鹿野氏邸(弥生2-4-1)の塀に、挿絵画家,高畠華宵の記念碑がはめ込まれている。華宵は、晩年鹿野氏の好意でこの邸内で療養中、昭和41年7月に亡くなった。大正から昭和にかけて、優艷で可憐な画風で若い人たちの大きな共感を呼んだ。
文京区教育委員会   昭和59年3月
(坂の標識より)

紅葉坂 (もみじざか) 台東区

別名幸庵坂(こうあんざか)

坂道周辺の紅葉が美しかったので「紅葉坂」と命名されたのだろう。別名「幸庵坂」ともいった。その命名由来は不詳。
江戸後期の国学者,山崎美成(よししげ)は「金杉日記」に,「天王寺うら幸庵坂下,又三しま社のほとり秋色尤もふかし,林間に酒を煖む」と記している。
この記事によると,幸庵坂 の名は江戸時代すでにあったことが知られる。
平成十二年三月  台東区教育委員会

のぞき坂  豊島区

豊島区高田2丁目17番と18番の間
別名が胸突坂(むなつきざか)、急坂(きゅうざか)という通り、傾斜・延長距離いずれも最急のひとつに数えられる坂。

けこぼ坂 目黒区

正覚寺から中目黒小学校と目黒区総合庁舎の間を通り、祐天寺に上る坂道がけこぼ坂である。同坂道は祐天寺道の一部であり、古くは下渋谷から別所坂を下り、さいかち橋で目黒川を渡り、この坂道を通って祐天寺前から碑文谷に至る交通の要衝であった。

そのため古くから何回となく急な箇所を切り取る工事を繰り返し、同坂の距離はかなり長くなり、頂上部の勾配も緩やかなものになった。道路面の変化は、両側の土手の法面にも変化を与え、高い法面は崩れやすく、赤土のかたまりがざらざらこぼれ、道幅を狭めていたことさえあったという。この状態を古い目黒の方言で「けこぼ」と称し、名前の由来になったという。

けこぼ坂は駒沢通りとなり、現在も主要な交通路である

なべころ坂 目黒区

中目黒四丁目13番と14番、16番の間の急坂をなべころ坂(別名、なべごろ坂)という。昔、鍋が転がるほどの急坂であったことからこの名がつけられたとする説と、「なべごろ」とは赤土が水でやわらかくなった状態を示す、目黒の古い方言であったとする説がある。

「なべごろ坂」とする説によると、坂道の両側には古くは耕地があり、坂道は狭く曲がっていた。用途が比較的少なかったためか、改造されることもなく、昔ながらの道路面は表土の黒土層が洗い流されて、赤土層が露出していた。そのため夏の乾燥日には赤土のかたまりがごろごろしていたし、冬の雪の日や春の霜解け、入梅期の雨の日などには赤土がぬかっていたという。
(目黒区公式サイトより)

帯坂(おびざか) 千代田区

この坂を帯坂といいます。名称は歌舞伎で有名な番町皿屋敷の旗本青山播磨の腰元お菊が髪をふり乱し帯を引きずってにげたという伝説によります。
また一名切通し坂ともいわれたのは、寛永年間(一六二四~一六四三)外堀普請の後に市ケ谷御門へ抜ける道として切り通されたのでその名がつけられたといいます。
(坂の標識より)

囲碁の総本山「日本棋院会館」があり、門前では学生さんが待ち合わせをしているのか
数人で談笑していたり、車の通りも割とあるこの坂道が、あの「番町皿屋敷」のお菊さんが
10枚の皿のうち1枚を亡くし井戸に身を投じ自害する前に、この坂道を振り乱した髪で
帯を引きずって走ったと想像すると言葉に詰まります。
この辺りは武家屋敷が集中してあり「番町」と呼ばれていたそうです。

木下坂(きのしたざか) 港区

南麻布5丁目7番、5丁目8番の間

北側は,大名木下家の屋敷がありその門前に面していたために,よばれるようになった坂名である。
平成二十三年十一月
(坂の標識より)

有栖川宮記念公園の北西面に面する部分。

南部坂 (なんぶざか) 港区

南麻布4丁目、5丁目の間

有栖川宮記念公園の場所が、赤坂からうつってきた盛岡城主南部家の屋敷であったために名づけられた。(忠臣蔵の南部坂は赤坂。)
(坂の標識より)

有栖川宮記念公園の南側でドイツ大使館前の通りです。
ドイツ大使館の壁展覧会は 「ベルリンの壁崩壊から25年〜壁に囲まれた街から世界に開かれた都市へ〜」と題しポスターやアートペインティングが楽しめました。

新富士見坂 (しんふじみざか)  港区

南麻布4丁目5番、4丁目10番の間

江戸時代からあった富士見坂(青木坂)とは別に明治末大正ごろに開かれた坂で富士がよく見えるための名であった。
(坂の標識より)

薬園坂(やくえんざか) 港区

江戸時代前期坂の西部に幕府の御薬園(薬草栽培所・小石川植物園の前身)があった。なまって役人坂・役員坂と呼ぶ。
平成二十一年二月 港区
(坂の標識より)

寛永年間、この坂の西部に幕府の御薬園が開かれた。
なんと薬草の栽培所、小石川植物園の前身だそうです。