青木坂(あおきざか) 港区

青木坂(あおきざか) 港区
別名:富士見坂(ふじみざか)
南麻布4丁目10番、4丁目11番の間

江戸時代中期以後、北側に旗本青木氏の屋敷があったために呼ばれた。
(坂の標識より)

鐙坂 (あぶみざか)

文京区本郷4丁目

本郷台地から菊坂の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。
名前の由来は「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」(『江戸志』)とか、その形が「鐙に似ている」ということから名づけられた(『改撰江戸志』)などといわれている。
この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主大河内家松平右京亮の中屋敷で、その跡地は右京山と呼ばれた。
文京区教育委員会   平成六年三月
(坂の標識より)

近くにあった明治中期創業の銭湯「菊水湯」はこの近くに住んでいた樋口一葉も通っていたそうだ。
その菊水湯も解体され4階建てのマンションになるらしい。

新坂 (しんざか)

文京区本郷5丁目と6丁目の間
区内にある新坂と呼ばれる6つの坂の一つ。
『御府内備考』に、「映世神社々頭領を南西に通ずる一路あり、其窮る所、坂あり、谷に下る、新坂といふ」とある。
名前は新坂だが、江戸時代にひらかれた古い坂である。
このあたりは、もと森川町と呼ばれ、金田一京助の世話で、石川啄木が、一時移り住んだ蓋平館(がいへいかん)別荘(現太栄館)をはじめ、
高等下宿が多く、二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など、文人が多く住んだ。この坂は、文人の逍遥の道でもあったと思われる。
東京都文京区教育委員会   昭和63年3月
(坂の標識より)

胸突坂 (むなつきざか)

胸突坂 (むなつきざか)
文京区本郷5丁目

昔は菊坂と呼ばれていたが、現在の菊坂に名前を譲り、こちらは「胸突坂」となったそうです。
その名の通り勾配の急な坂道を上がると登録有形文化財に指定された鳳明館本館やノスタルジックな本郷倶楽部等があります。

伊賀坂 (いがざか)

文京区白山2丁目
白山台地から白山通りに下る坂で、道幅は狭く、昔のままの姿を思わせる。この坂は武家屋敷にちなむ坂名の一つである。伊賀者の同心衆の組屋敷があった(『御府内備考』)とか、真田伊賀守屋敷があった(『改撰江戸志』)という2つの説がある。『東京名所図会』では真田伊賀守説をとっている。伊賀者は甲賀者と共に、大名統制のための忍者としてよく知られている。
文京区教育委員会   平成9年3月

逸見坂 (へんみざか)

文京区白山4丁目
「白山神社裏門の南、小石川御殿町と指ヶ谷の間より南へ御殿町へ上る坂あり、逸見坂といふ。旧幕士逸見某の邸、坂際にありしより此名に呼ぶなり」(『東京名所図会』)
武家屋敷にちなむ坂名である。このあたり「旧白山御殿町」で、逸見坂はその北のはずれに当たる。
町名の由来は、白山御殿(後に5代将軍になった館林候綱吉の屋敷)からきている。
御殿廃止後、幕府の薬園(現在の小石川植物園)となる。
坂の西側の「本念寺」には蜀山人(太田南畝)の墓がある。
文京区教育委員会   平成元年11月

蓮華寺坂 (れんげじざか)

文京区白山2丁目と4丁目の間

『蓮華寺即ち蓮花寺といへる法華宗の傍らなる坂なればかくいへり。白山御殿跡より指が谷町の方へでる坂なり」と改撰江戸志にある。
蓮華寺は、天正15年(1587)高橋図書を開基、安立院日雄を開山として創開した寺院で明治維新までは、塔頭が六院あったという。
なお、この坂道は小石川植物園脇の御殿坂へ通じ、昭和58年(1983)にハナミズキやツツジが植栽され、春の開花、秋の紅葉が美しい並木道である。
文京区教育委員会   平成12年3月
(坂の標識より)

相馬坂(そうまざか)

この坂に隣接する「おとめ山公園」は江戸時代には将軍家御鷹場として一般人の立入りを禁止した御禁止山(おとめやま)であった。この一帯を明治時代末に相馬家が買い取って屋敷を建てた。
この坂は新井薬師道から相馬邸に向け新たに通された坂道であるため、こう呼ばれた。
(坂の標識より)

七曲坂(ななまがりざか)

折れ曲がった坂であることからこの名がついた(『江戸名所図会』)。
古くは源頼朝が近江に陣を張った時、敵の軍勢を探るためにこの坂を開かせたという伝説がある(『遊歴雑記』)。
(坂の標識より)

久七坂(きゅうしちざか)

『豊多摩郡誌』には、もとは田んぼへ行き来するための道で、急な坂であったと記されている。
坂名はゆかりのある村人の名にちなむものであろう。

聖母坂 (せいぼざか)

下落合駅から緩やかな坂を上がると坂名の由来となった聖母病院があります。
動物病院や落合保健センター、全農たまご株式会社が立ち並んでいます。
途中で目を見張るデザインの住宅もありました。
お猿のセーフティーコーンも可愛いですね。

西坂 (にしざか)

『豊多摩群誌』に 「西坂 新宿道,字本村と字不動谷との間にあり」 とある。
坂名の由来は,この坂が字本村の西に位置するからだという。
かつて坂上にあった 徳川男爵邸の庭園は,ボタンや菊の時期に一般公開され,この坂あたりも賑わった という。
平成三年九月  東京都新宿区教育委員会