逸見坂
白山4-32と34の間
「白山神社裏門の南、小石川御殿町と指ヶ谷の間より南へ御殿町へ上がる坂あり、逸見坂といふ、旧幕士逸見某の邸、坂際にありしより此名に呼ぶなり」(『東京名所図会)
武家屋敷にちなむ坂名である。このあたり「旧白山御殿町」で、逸見坂はその北のはずれにあたる。
町名の由来は、白山御殿(後に五代将軍になった館林候綱吉の屋敷)からきている。
御殿廃止後、幕府の薬園(現在の小石川植物園)となる。
坂の西側の「本念寺」には蜀山人(太田南畝)の墓がある。
東京都文京区教育委員会 平成元年11月
太田南畝の墓
区指定史跡 白山4-34-7
南畝の生まれは牛込御徒町で、終焉の地は神田駿河台である。青年寛延2年~没年文政6年(1749~1823)。17歳で幕府に出仕以後、能吏として活躍。一方19歳で「寝惚先生文集」を著し、文名を高め、以来多くの作品にみられる軽妙、酒脱な筆法によって町人文学の中心的存在となった。さらに狂歌の流行をみるに及び、彼の狂歌号「蜀山人(四方赤良)」の名声が高まった。本寺に眠る南畝の墓碑は「南畝太田先生之墓」とあるのみである。彼は一時、小日向金剛寺坂付近に住み、文京区にゆかりの深い文化人であるだけでなく、狂歌界にあって指導的役割を果たした文人として価値ある史跡である。
「生き過ぎて 七十五年くいつぶし
限り知らぬ天地の恩」(辞世)
日蓮宗 信弘山本念寺
文京区教育委員会 平成13年3月
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