私たちは清め塩を使いません
会葬お礼に挟まれていた白い紙の文字に目がとまりました。
明朝体の黒い文字が以下のようにつづきます…
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「清め塩」は現在ほとんどの葬儀に見られ、会葬者にお礼状とともに渡されています。「清め塩」で「お清め」することを当たり前のように思っている人が多いようです。
しかし、この「塩」でいったい何を「清め」ようというのでしょうか。「清め」と言うからには何かの「穢(けが)れ」を除くという意味があるのでしょう。
そうだとすると葬儀は穢れた儀式で、亡き人は穢れた者ということになってしまいます。
生前には父や母、兄弟や友と呼び親しんだ人を、亡くなった途端に「穢れ」として「清め」ることは、悲しく痛ましい行為ではないでしょうか。
仏教では「死」を「穢れ」と受け止めることはありません。反対に「死もまた我等なり」と受け止め、生死する命を精一杯に生きていくことこそ人の生き方であると示しています。
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そもそも「穢れ」というものの概念がよく分からないし、多分それは答えのないものかもしれない。
宗教にも文化にも疎いわたしではあるが、随分前に「清め塩」システムに抵抗した。
それは大好きなおばあちゃんが亡くなった時のこと。
塩を体にふりかけるように言われたが、祖母が不浄なものとして扱われたようで
無視した中学生の私。
何が正しいのか分からないけど、その時々の気持ちに素直にしたがっていこうとおもう。